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元気だせデザイン・元気だぜデザイン by佐野邦雄

−−−9 JIDA 年次大会の夜と朝 − 記憶に残る言葉とシーン


● デザインは社会とともに

かつてJIDAには年次大会と、数年に一度JIDCという大会があり、その先にJIDAも
属するICSID(国際インダストリアルデザイン団体協議会)が世界各地で開く会議
(下記*)というのがあった。大会は東京が多かったが持ち廻りで各地でも開かれた。

大会のテーマは時代を反映していて、今改めて見るとデザインが社会とともにある
ことを如実に示している。手元にある資料から90年代までのテーマを並べてみよう。
尚出典により多少差もあるのでお許し願いたい。                   

60年代:「IDにおける統一要素*」「デザインと公共*」、「IDの今日の役割を探る」、
「日本のIDのありかた」、「人間そのものへ*」、「IDの有効性について」、
「IDと人間」、「デザインと社会とその未来*」、「人と道具」。             

70年代:「変化」、「流動する社会とデザイン*」、「都市生活とID」、「IDと生活」、
「人の心と物の世界*」、「コミュニティーとデザイン」、
「人類と社会のためのデザイン*」、「デザイン・フォー・ニード」、
「Identity Development*」、「地域とデザイン」、
「balance 共生を求めて」、「コミュニティ・アイ」。                       

80年代:「JIDAはどこへ行く」、「公共環境を考える−鉄道とデザイン」、
「IDと文化の創造」、「いま自動車を考える」、「インターフェース」、
「高度情報社会とデザイン」、「ID次の波形」、
「かたちの新風景−情報化時代のデザイン*」。           

90年代:「社会進歩とデザイン」、「創造産業の行方−広がるデザイン」

といった具合だ。IDという文字が林立している。こうして見ると「社会とともにある」
とはいえ、実際はIDという後発の新領域が、いかに社会と接点を見出そうと努力したか
の軌跡にも見える。




● 建物に爆薬を仕掛ける

私が初めて会議に参加したのは1970年の「変化」で、メタモルフォーシス(変容)
という言葉にも出会った。当時、日本の一線の建築家やデザイナーが「メタボリズム
(新陳代謝論)」グループを結成して新しい概念を打ち出していたが、その一人の
黒川紀章氏(建築家)が記念講演をした。黒川氏はその中で「建物を新しく建てる時
に、その建物が終焉を迎える時を考えて設計時に建物の中心部に爆薬を仕掛けておく」
と話した。この発想は衝撃的で、それまで建築の永遠性を信仰していた私の概念を根本
から引っくり返すものだった。                       

その後、モノの世界でも大衆消費社会が一段落して、製品のライフサイクルや経年変化
についての話題が出るようになり、たとえば一つの製品でもパーツにより寿命が長いも
のや短いものがあり、その対処としてカートリッジ方式が提案されたりした。                   

ライフサイクルに関連して話は少し飛ぶが、中小零細企業にとってロングライフ
(長生き)製品は柱になり心強い存在だ。鋸の刃の形のように宣伝をしている間だけ
売り上げが上昇し、宣伝をやめると急落する商品が多い中で、IDデザイナーの間では、
製品のロングライフは一つの価値として根付いていた。ロングライフ製品を生み出す
ためには「基本をしっかり押さえることだ」と石井賢康さん(NIDO インダストリアル
デザイン事務所)からアドバイスされたことがある。身体そのモノが短期間にそんなに
変わることはないのだから、基本機能や動作に最も相応しい形を探り出すことだと。                  

しかし日常使われるモノである以上、永遠はあり得ない。いつかは廃棄される。エコ
時代になって急に皆が考えるようになったが、モノに比べて個体の建築物の解体時の
作業量と廃棄物の処理は猛烈だ。それらについて考える時は、何故か「爆薬」が頭に
浮かぶ。やはり発想の先見性というのはあるのだ。爆薬と同レベルの発想で何か解決策
がありそうな気がいつもしているのだが。




● 勝井三雄さん 最高のポスター誕生

1977年、JIDC3rdとして平河町の日本海運倶楽部で「balance 共生を求めて」が開
かれた。向井周太郎さんが内容委員長で私は広報を担当した。ポスターとパンフレット
や入場券など全てをグラフィックデザイナーの勝井三雄さん(現・JAGDA会長)にお願
いすることになった。

私は向井さんの時代の認識と、勝井さんの時代の感性を繋ぐ重要な役目を担うことにな
った。お二人の間のやり取りは殆どないまま進んだがピンとした緊張感があった。
勝井さんはとことん考え続ける人で、そろそろ構想が出来上がる筈の日に訪問すると、
机の上のDICのカラー見本を指でめくりながら「佐野君、何かいいアイデアはないかね。」
などと私を慌てさせた。日程的にギリギリになったある日、素晴しいポスターの校正刷り
が上がっていた。私が内心喜んでいる時印刷屋が来たが、勝井さんは目の前でバックの色
指定を全部やり直してしまった。私には分らないのだが、感性表現をとことん重視する
グラフィックデザイナーの厳しさを見た気がした。

それから間もなくパンフレットなども一挙に出来上がった。私はJIDAの会議の歴史の中で
最高のデザインが出来上がったと思った。特に目の前で色指定を変更したあのポスターは、
亀倉雄策さんのICSID‘73 KYOTOのポスターと双璧をなすもので、そのプロセスに立ち
会えたことを今でも誇りに思っている。

会議は「哲学」「生活」「文化」「価値」と多面的に行われたが、当時、参加者の皆が
それぞれ根源に向って確認したい気持を共有していたと思う。
向井さんも「活動領域が拡張すればするほどデザイン観そのものが問われることとなる。
いいかえれば、デザイナー自身の哲学が問われているのである。」と書いている。
会議の様子を日本能率協会のIE誌上で技術史家の飯田賢一さんがレポートしたが、その
タイトルは「IDデザイナーは哲学がお好き?」だった。


お気に入り
balance 共生をもとめて デザイン:勝井三雄氏 1977




●「精緻の構造」の編集 合い言葉は「立つ本」

話は飛ぶが、勝井三雄さんとは1983年のJIDA創立30年記念誌「精緻の構造」の出版の
際にも2年にわたってご一緒した。戦後日本のIDを網羅して記録に残そうとしたもので、
合い言葉は皆の気持をこめて「立つ本」だった。ID界の各領域から100人もの委員が参加
した。

編集に携わった私は子供から「今度いつ来るの」と言われるほどハードな日々を過ごした
が勝井さんも粘ってくれた。編集中も出来上がってからも色々あった。原稿をお願いした
豊口克平さんから「これは最後のご奉公だよ」と言われ、たまたまお見えになった勝見勝
さんに「日本のデザイン運動史を書いて下さい」と頼むと「まだまだ皆生きているからね」
と言われたが、それから間もなくご本人が先に逝かれてしまった。                

出版記念パーティで亀倉雄策さんから「オレが想像していたより、いいのが出来た」と悔し
紛れのお言葉を頂いたが、勝井さんの力によるところが殆どだ。
工芸財団へ持参すると大先輩たちから「精緻の構造」というタイトルは片手落ちだ、「大胆
なイメージ」と「精緻の構造」だと言われた。吉岡道隆さんからは「これは国の権益に関わ
るから中国へ持っていっては駄目だよ」と言われたし、栄久庵憲司さんからは「君は弁慶の
役をやったんだ」と、男の子が喜びそうな言葉を頂戴した。



● つま恋の夜、石井賢康さんは「原型」と

1980年、静岡県掛川の広大な敷地に色々な施設がある「ヤマハリゾートつま恋」で「JIDA
はどこへ行く」のテーマで大会が開かれた。昼のセッションが終わり、夕食は皆で大きな
食堂に集まり、風呂へ入った後、夫々の部屋で数人ずつ集まって話が広がった。

私は石井賢康さんと同じ部屋になった。夜もかなりふけた頃、名古屋から来た渡辺篤治さん
が酔っぱらって入ってくるなり床にベタッと坐って、丁度ベッドの縁に坐っていた石井さん
を見上げながら、「今、私たちはなにをすべきでしょうか。」と問いかけた。質問を受けて
石井さんは目を閉じて考えていたが、そのままの姿勢を崩さずじっとしたままで、回りにい
た人たちも固唾を飲んでいた。私は石井さんが坐ったまま眠ってしまったのかと思った頃、
やっと目を開くと「原型を生み出す努力をすべきです。」と言った。

その夜は、他の部屋でもいろいろと議論が交わされたらしい。渋谷邦男さんとシャープの
役員だった坂下清さんが「先にビジネスとしてのデザインありきか、否、デザイナーは先ず
デザインに集中すべきだ」というようなことで、かなり厳しくやり合ったと翌朝聞いた。

その後も私の中で「原型」はずっと持続している。たとえば中国のデザイン系大学の若手
教師を集めて毎年開いた研修の報告書のタイトルも「原型」とした。その研修はJIDAの
事務局長だった松丸隆さんが井戸を掘り、タニタの谷田大輔社長の肝いりで2007年まで10
回続き、延べ250名が参加したのだが、神戸芸工大の大田尚作さんを始め多くの人のボラン
ティア精神と粘り強さで実現したものだ。JIDAでは横内富義さん、清水吉治さん、西澤信雄
さん、本水裕次郎さん、そしてToolsさんなど多くの人が身体を張って参加してくれた。

奇跡と言われたその研修で、私はメソッドやスキルだけではなく、最後に創造に携わる者の
探求の目標として「原型」を何とか伝えたかった。いつか中国のデザイナーの口から「原型」
の言葉が出る時代が来るに違いない。それはつま恋の夜に石井賢康さんから出た言葉だ。


お気に入り
TANITA国際芸術研修所 工業デザイン研修班 1997–2007 活動記録 「原型」



● 夜中にベッドの上で飛び起きる自動車のデザイナー

1984年、神奈川県の大磯で「いま自動車を考える」のテーマで年次大会が開かれた。実行
委員長はいすゞの井ノ口誼さん、内容委員長は東海大の渋谷邦男さん、私は内容副委員長を
務めた。大磯の海岸にあるプリンスホテルの入り口には、各社の代表的な車が置かれ雰囲気
も充分だ。

講演は哲学者の中村雄二郎さんで「コモンセンス(共通感覚)」をテーマにして語られたが
「全身センサー」や「幽玄」というキーワードも忘れられない。もう一人の講演は日産自動
車社長の石原俊さんで「日本の産業従事者の10人に一人は、何らかの形で自動車の生産と関
わっている」と話された。私の微かな記憶だが、かつて一万田尚登日銀総裁が「国際分業の
中では、日本が自動車工業を育成するのは無意味である。」と日本の自動車工業不要論を唱え
たことがある。                          

その日本が短期間に成し遂げた基幹産業の規模の凄さを初めて知った。
しかし、私は免許も持たず、「いつか気に入ったデザインの車が出たら免許をとる」とうそ
ぶいていたほどで、車に対して褪めているところがあった。私は会議の一発目の問題提起の
セッションの司会をやることになっていたのだが、前夜も「日本の自動車はいまや寡占市場
で車優先社会になっていて、どちらかといえば社会的に体制化していると思うので、その辺り
もぶつけてみたい」と思っていたほどだ。

三菱自動車の三橋慎一さんや東芝の永井義郎さん、モータージャーナリストの三本和彦さん
など著名な評論家や大学教授がパネラーになった。会議が始まると早速、専門用語が飛び交
って自分が不適任であることはすぐ分ったが、なんとか問題提起の形にはなったと思う。

その夜、自動車に関わる大先輩を囲んで話を聞く会が開かれたが、スバル360をデザインされ
た佐々木達三さんが、丁度その日が誕生日だと紹介されると、会場全体に自然に拍手がわき上
がった。それは私の経験した中でもっとも心の籠った暖かく素晴しい拍手だった。

翌朝、食事のテーブルについているとMAZDAのデザイナーの方が見え、私に話したいことが
あるといわれた。「私は主査ですが新型の責任者になる時は、生産がスムーズに行かない夢を
見て夜中にベッドの上に飛び起きることがあるのです。」「ある時は私個人を超えて会社の
ためを思って嘘をつくこともあります。」「そういうデザイナーの現実があることを佐野さん
には知っておいて欲しい。」と真顔で話された。多分前日の司会の時、私が当事者側でなく
評論家的なスタンスで司会を務めたことに起因していたのだと思う。

以前、あなた自身が評論をやるべきだと、ある人から言われたことがある。しかし、私は解説
者にはなれても評論家にはなれない。総論は仮説として書けるかもしれぬが、各論で現場で踏
ん張っている仲間を切ることはできない。そこが私の限界で曖昧である所以だが、時々あの
大磯の朝の真剣な言葉を思い出す。   

この国はそんな一人一人の必死の上に成り立っているのだ。



● 大会と日常の仕事の仕組み  

9月25日、両陛下をお迎えして行われた千葉県の国民体育大会の開会式を幕張のマリーンスタ
ジアムで見た。かつてのJIDAの年次大会も毎年大変な労力を結集して行われ国民体育大会に
通じるところがあった。会議では日々の現場の話よりは、デザインの周辺環境や一歩先の事柄
が多く語られ学習の場でもあった。参加した会員はそれらを聞いて自分の日常の場でどう整合
させるかを考えながら実践する仕組みが出来ていたと思う。また一方でインハウスのデザイン
部門や企業はお金を出し、フリーランスデザイナーは身体を使って動くという分担もいつの間
にか出来ていたと思う。

私はなぜか広報の担当が多く、1986年、横浜で行った「情報化社会とデザイン」でも広報を
担当した。シンボルマークを作ったり機関誌の特集号を出したが、その時、キヤノンのT90に
ついて御手洗社長が「私はT90は好きだが、ルイジ・ コラーニが原型をやったデザインは嫌い
だ」と言ったという愉快なエピソードを長坂 亘さんから聞いたことなど昨日のことのように
覚えている。            

お気に入り
横にすると走るオブジェ「ロボカ サーヴァント(従者)」デザイン:筆者 2010




■ 祖素甦天 そそそてん 南会津の業師たちと意匠師の企て 
地勢+素材+人+技+歴史×デザイン 果たして未来へつながるか

妙なネーミングになったが、10月9日から8日間、京橋のギャラリーモーツァルトで展覧会を
開くことが急に決まり、南会津の人たちとなんとかやっつけた。今年1月、登山靴を履いて雪
の会津で初めて打ち合わせをしてから、月に1度、日光から単線で北上して、緑の中をかいく
ぐりながら春、夏と通った成果だ。相手は和太鼓製造30年の企業が新たに設けた実験工房と、
出入りの木工業と丸もの木地師の職人さんだ。地場産業プロジェクトは初めてではないが普通
のビジネスとはかなり違って人間的なつきあいの部分が濃い。以前徳島の家具メーカーへ通っ
たが、ある日、会長さんが朝から海へ釣りに行ってしまった。打合せを終え夕食に寿司屋へ行
くと、「これは貴方のために今日釣ってきた魚だ」と言われ、おもてなしの心などという言葉
がすっ飛ぶほど感激したものだ。

都会で読む本に出てくる歴史や伝統文化が、実在する人間やモノとして生々しく出現する。
今回も丸もの木地師の職人さんは、紀(きの)さんというのだが、珍しいので「私は紀貫之し
か知らないのですが」と言うと、「私は紀貫之の弟の末裔です。」と言われ冗談だと思ってい
たら家系図まで見せてくれることになり一挙に平安に繋がった。一方、NCで家具メーカーの
パーツを作っていた人は、猛烈に気合いを入れてプログラムを組み細部の限界に挑戦して私を
唸らせた。日本のモノづくりが国内に踏み止まれるとすれば、先端技術もさることながらやは
りこの気合いが必要だ。勿論デザイナーの気合いも試される。暫く通うと地域の抱える事柄も
実感し、デザイナーが果たすべき役割もかなり見えてくる。         

デザイナーはコーディネイターとして、既に問題を孕んでガチガチになった諸々の要素を繋い
で、1ランク上の次元へ止揚する役にぴったりだ。それと地域に連綿とつながる歴史の中で、
自分たちが今何をやろうとしているかをリニア・線的に見ることが出来るので、今日・明日だ
けでなくごくごく自然な姿で未来に繋がるであろうものも見えてくる。今のモノ作りは生産者
側も使用者側も、自分たちが作り上げて(陥って)しまった「装置」の中で無理矢理開発して
いるように見える。果たしてそれが人間本来のためなのかは分らないままに。              

展覧会には道具の研究家や民族学系の人も見えて、触発されたように自由な発想をその場で話
してくれたのが一番大きな収穫だった。


狂夏をなんとかやり過ごして。10月20日




佐野邦雄/Kunio SANO
プロダクトデザイナー/Product Designer

JIDA正会員(201-F)

プロフィール:
1938年東京中野生れ。精工舎、TAT勤務後、 JDS設立。
74年 「つくり手つかい手かんがえ手」出版。日本能率協会。
78年〜 ローレンス ハルプリンWS参加。桑沢ほか4校の講師。
79年  JIDA機関誌100号「小さいってどういうこと?」編集。
86年 東ドイツ、バウハウスデッソウゼミナール参加。
92年〜03年 中国のデザイン教育。
01年〜静岡文化芸術大教授。 定年退官後、現在2校の講師。
デザイン: 人工腎臓カプセル、六本木交叉点時計塔など 。
現在、小学1年生で経験した学童疎開の絵本を執筆中。

更新日:2012.01.15 (日) 05:26 - (JST)